QPtanの日記

読書日記や種々雑感、および英語や国語の効率的な学習法

世界史クイズ23の解説付き答え

ヒトラ〜率いるナチス・ドイツ第三帝国の樹立を目指した。

では、その際に指した第一帝国と第二帝国とは何だったか?

 

①古代ロ〜マ帝国と神聖ロ〜マ帝国

②神聖ロ〜マ帝国とドイツ帝国

インカ帝国ムガル帝国

プロイセンと神聖ロ〜マ帝国

 


答え)②

解説)①か②かで迷った人もいたかもしれない。告白すると自分も長いこと、第一帝国とは古代ロ〜マ帝国のことを意味すると勘違いしていた。それどころかドイツ帝国の存在すら知らなかった。

①まずは「古代ロ〜マ帝国」。伝説によると、紀元前12世紀、「トロイア戦争」で滅ぼされたトロイアの王に仕えていた将軍・アエネイスがイタリア半島に逃れてきたとされる。そしたその子孫が狼🐺に育てられたロムルスとレムスの双子である。兄のロムルスが紀元前753年にティベル河畔に都市国家・ロ〜マを建てたのが始まり。その後、エトルリア人の王を追放したり南部イタリアにいたギリシア人を追放してイタリア半島を統一した。更にはその後、地中海🏖西部の覇権をフェニキア人と争うのと同時に地中海🏖東部に勢力を持っていたギリシア都市国家とも戦い、これら2つの戦争に勝利🏅🏆したロ〜マは次第に地中海全域を領土とする巨大な国家となった。最初は共和制だったが、紀元前27年から帝政ロ〜マになった。一般的には帝政になってからを古代ロ〜マ帝国と呼ぶ。次に「神聖ロ〜マ帝国」だが、この国は現在のドイツに建てられたにも拘わらずなぜか「ロ〜マ」という文字が国名に付いている。これについては18世紀の啓蒙思想家ヴォルテ〜ルが面白いことを皮肉たっぷりに言っている。曰く、「神聖でもロ〜マ的でも帝国ですらない」。笑えるwそれはさておき「神聖ロ〜マ帝国」であるが、A.D.15世紀前半からは事実上、その皇帝の座をほぼハプスブルク家から排出していた。名前に「ロ〜マ」という文字が付いていたからであろうか。イタリア🇮🇹もその支配下にせんと、度々、イタリアを巡って戦争を起こした(これを「イタリア政策」という)。ハプスブルク家は世界史好きならば誰もが知っている超ビッグ・ネ〜ムだが、このブログを読んでくださっている方々が世界史好きか否かは判断しかねるので、私の書いた世界史クイズ15の選択肢②の「(フランス)二月革命」の解説をした際に中世フランス史にまで遡って話したのと同様、ハプスブルク家の興りを中世ドイツ史から説明する。古代ロ〜マ帝国が滅びるとフランク王国が建国された。そして、フランク王国が3つに分裂して、今日のドイツ地方はそのうち東フランク王国編入された。そして更にザクセン朝のオット〜1世がマジャ〜ル人を撃退したことによりその功績を認められ、ロ〜マ教皇から神聖ロ〜マ帝国の皇帝位を授けられる。これが神聖ロ〜マ帝国の起源である。神聖ローマ帝国は全く統一がとれていないばらばらの国であり、その中でも力があった強国がプロイセンとオ〜ストリアである。さて、肝心のハプスブルク家であるが、その神聖ロ〜マ帝国の皇帝位を15世紀中頃からほぼ独占してきたのがハプスブルク家だ。あのマリ〜=アントワネットもハプスブルク家の生まれである。

 

②「神聖ロ〜マ帝国」については私の書いた世界史クイズ23の解説①を参照。次に「ドイツ帝国」であるが、まずは世界史クイズ23の解説④のプロイセンの歴史を読んでもらいたい。「ドイツ帝国」はプロイセンから生まれたと言っても過言ではないからだ。というわけで、私の書いた世界史クイズ23の解説④のプロイセンについては読んだことを前提に話をする。「(フランス)7月革命」後、ドイツ関税同盟により経済的な統一がなされる(今日のEUのようなもの)。一方、政治的な統一はというと、「(フランス)2月革命」後のフランクフルト国民議会においてドイツの統一が話し合われる。が、小ドイツ主義(プロイセン主導。オ〜ストラアは除外)と大ドイツ主義(オ〜ストラア主導)に別れる。ここに現れたのがビスマルクである。彼は戦争(普墺戦争)によりオ〜ストリアを力づくで追い払出す。これにより、北ドイツ連邦が成立した。続いて普仏戦争により、フランスを叩きのめす。ナポレオン3世を捕虜にまでした。その勢いで、フランスのヴェルサイユ宮殿にて「ドイツ帝国」の成立を宣言する。

③「インカ帝国」とは南米の地に栄えた国で、インカとは「太陽🌞の子」を意味する。A.D.1533年にスペインの征服者・ピサロにより滅ぼされた。「ムガル帝国」とはインド🇮🇳に存在したイスラム王朝である。

④「プロイセン」とは13世紀になってからエルベ川以東に東方植民活動が活発となっていき、これによって出来たドイツ騎士団領プロイセンが元である。16世紀になりルター派に改宗しプロイセン公国となる。以後、宗教騎士団の性格を失う。1618年、「ブランデンブルク辺境伯領」と合併(以後、「ブランデンブルク=プロイセン公国」)。1701年、「スペイン🇪🇸継承戦争」において神聖ロ〜マ帝国側に立ち参加したことにより公国から王国へと昇格。ドイツ🇩🇪の成り上がりの国に過ぎなかったプロイセンだが、オ〜ストリアと争う一大王国になっていく。プロイセンの有名人としてはビスマルクがいる(プロイセン宰相)。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」の言葉で知られる。プロイセンを強国にした2人の王=フリ〜ドリヒ・ヴィルヒルム1世とその息子、フリ〜ドリヒ2世。「神聖ロ〜マ帝国」については私の書いた世界史クイズ23の解説①を参照。