QPtanの日記

読書日記や種々雑感、および英語や国語の効率的な学習法

世界史クイズ1〜10・解説付き回答(完全版)

やっと解説付きの回答・完全版が完成した。

回答・解説の論拠は「詳説世界史」(山川出版社)と「青木世界史B講義の実況中継」(語学春秋社)を主として、そこに書かれていないことについては仕方がないのでググった。

自分で言うのも何だが情報の正確さにはかなりの自信を持っている。

初めての試みということもあってか、一部の問題では選択肢を作り間違えたりした。

問6に至っては問題を丸々差し替えた。

 

 

 

世界史クイズ1。

 


「バイト=アル=ヒクマ」とはアッバ〜ス朝の第7代カリフ・マ〜ム〜ンによってバグダ〜ドに建設された図書館だが、ファ〜ティマ朝とセルジュ〜ク朝に建てられた学校の名前はそれぞれ何というか?

 


 

 


1、ボロ〜ニャ大学にクラクフ大学

 


2、サレルノ大学サラマンカ大学

 


3、ウプサラ大学にトゥ〜ル〜ズ大学

 


4、アズハル学院にニザ〜ミ〜ヤ学院

 


 

 


答え)④

 


解説)1のボロ〜ニャ大学とはヨ〜ロッパ最古の大学といわれ、法学で有名である。クラクフ大学はポ〜ランド最古の大学で、リトアニア=ポ〜ランド王国ヤゲウォ朝のカジミェシュ大王が建てた。コペルニクスはこの大学の卒業生。ちなみに、後者は前者をモデルとして作られた。

 


2のサレルノ大学南イタリアに作られた医学校。サラマンカ大学は現存するスペイン最古の大学。

 


3のウプサラ大学はスウェ〜デン最古の大学。トゥ〜ル〜ズ大学はフランスにある大学。

 


4のアズハル学院とはシ〜ア派(第4代カリフ・アリ〜とその血筋を引く人をしかムスリム(イスラム教徒)の指導者として認めないとする立場の人々。アリ〜はムハンマドの従兄弟であり、その妻はムハンマドの娘。ちなみに、現イラン政権はシ〜ア派)王朝・ファ〜ティマ朝がカイロに建てた学校で、イスラム世界で少数派であるシ〜ア派の正統性を主張するための教義研究機関としても機能した。ニザ〜ミ〜ヤ学院はスンナ派(ムハンマドの血を引き継いでいようが引き継いでいなかろうが、ムハンマドが行った慣行・範例を遵守しているムスリムである限り、ムスリムの指導者として認めるという立場の人々。イスラム世界では圧倒的多数を占める)王朝・セルジュ〜ク朝(マリク=シャ〜の時代に最盛期を迎えたが、彼を支えたイラン人宰相・ニザ〜ム=アル=ムルクがファ〜ティマ朝に対抗してスンナ派の教えを理論づけるという機能も果たした)によって建てられた学校。

 

 

 

世界史クイズ2。

 


俗に言う古代4代文明の一つ、メソポタミア文明とは今日のどこに位置するか?

 


 

 


1、イラク

 


2、エジプト

 


3、インド

 


4、中国

 

 

 

答え)①

 


解説)1.今日のイラクに栄えたメソポタミア文明は世界最古の古代文明と言われており、現在のイラク北部のジャルモからは紀元前7000年ごろのものと思われる農業遺跡が見つかっている。

 


2.古代エジプトもその文明が栄えたのは早かったが、メソポタミア文明よりはやや遅かったらしい。ちなみに、上エジプトと下エジプトはメネス王によって紀元前3000年ごろに統合された。ギザにあるクフ・カフラ〜・メンカウラ〜らによる巨大ピラミッドは紀元前2500年ごろに造られた。

 


3.古代インドに栄えた文明としてはインダス文明が知られているが、栄えたのはB.C.2300年〜B.C.1800年ごろ。

 


4.黄河文明は紀元前5000年ごろから。

 

 


世界史クイズ3。

 


0の概念が発見されたのはどこだったか?

 


 

 


1、エジプト

 


2、イラク

 


3、インド

 


4、アメリ

 

 

 

答え)③

 


解説)今日のインド人たちが数学にめっぽう強いのは、彼らの祖先が0の概念を発見したことと関係があるのかもしれない。

 

世界史クイズ4。

 


旧約聖書新約聖書はそれぞれ何の言語で書かれたか?また、ラテン語訳聖書のスタンダ〜ドになったのは何と呼ばれていたか?

 


 

 


1、アラム語ヒエログリフ、そしてスコラ

 


2、楔形文字ウルガタ、そしてデモティ〜ク

 


3、アラム語にコイネ〜、そしてウルガタ。

 


4、アラム語フェニキア文字、そしてウルガ

 


 答え)③

 


解説)1、a,アラム語は紀元前12世紀ごろから陸上交易で栄えたアラム人が使用したいた言語で、今でいうところの英語に当たる国際共通語であった。豆知識としてはイエス・キリストアラム語を話していたと言われている。

 


b.次にあるヒエログリフというのは古代エジプト象形文字(神聖文字)。豆知識としてはナポレオンが1799年のエジプト遠征中に発見したロゼッタスト〜ンの上段にヒエログリフ、中段にデモティック(民衆文字)、そして下段にギリシア文字が記されていて、すでに解読されていたギリシア文字を手がかりにシャンポリオンという学者がヒエログリフを解読した(ロゼッタスト〜ンに3種類の言語で書かれいた文章は同じ内容)。

 


c.スコラとはラテン語で学校の意味。今日のスク〜ルの語源。スコラ学というのは中世キリスト教神学のことである。

 

 

 

2、a.楔形文字とはシュメ〜ル人(紀元前3000年ごろからメソポタミアで栄えた。彼らが造った神殿・ジッグラトはバベルの塔のモデルになったと言われている)が使っていた文字。基本的には粘土板に刻まれたが、例外的に、アケメネス朝ペルシア最盛期の王・ダレイオス1世の業績を記したベヒストゥ〜ン碑文などがある。解読したのはロ〜リンソンという学者。

 


b.一般的にウルガタと言ったらローマ・カトリック教会の標準ラテン語訳聖書のこと。古ラテン語のことかどうか調べたがわかなかった。

 


c.デモティ〜ク・・・古代エジプトの民衆文字。

 

 

 

3、a.アラム語・・・1のa.を参照。

 


b.コイネ〜=アレクサンドロス大王が東方遠征で征服した地域に広めた共通ギリシア語。

 


c.2のb.を参照。

 

 

 

4、a.アラム語・・・1のa.を参照。

 


b.フェニキア語・・・紀元前12世紀ごろから地中海交易で栄えたフェニキア人が使用していた言語。カナ〜ン人から学んでフェニキア文字を作り、それがさらにギリシア人に伝播しアルファベットの原型になった。

 


c.ウルガタ・・・2のb.を参照。

 

 

 

世界史クイズ5。

 

 

 

ゲルマン民族の大移動(375年)は何を契機(きっかけ)に始まったか?

 


1、アジア系遊牧騎馬民族のフン人(北匈奴説あり)によるヨ〜ロッパへの西進により東ゴ〜ト人が圧迫を受け、その西隣にいた西ゴ〜ト人がドナウ川を渡り西ロ〜マ帝国内へ侵入した。

 


2、アヴァ〜ル人によるヨ〜ロッパへの侵入

 


3、スキタイによる東ロ〜マ帝国への侵入

 


4、バイキングによる西ロ〜マ帝国への侵入

 


答え)①

 


解説)

1のフン人には北匈奴説がある。匈奴とは古代より中国を苦しめてきた遊牧騎馬民族で、万里の長城が造られたのも彼らがそこで一度、馬から下りなくてはならないようにするため。

 


2のアヴァ〜ル人とは6世紀に中部ヨ〜ロッパに侵入してきたアルタイ語遊牧民

 


3.スキタイとは紀元前6世紀ごろに南ロシアの草原地帯を支配していたイラン系と推定されている遊牧騎馬民族で、その動物文様と金細工を特徴とするスキタイ文化を持ち、匈奴などにその騎馬文化を伝えたことで有名。

 


4.バイキングは北に住んでいたゲルマン人で、彼らの移動はもっと遅く9世紀ごろになってからである。

 

 


世界史クイズ6。

 


ジャンヌ・ダルクで有名な英仏100年戦争は何が原因で起きたか?

 


1.毛織物産業の中心地であるフランスのフランドル地方とワインの積出港・ボルド〜を中心としたギュイエンヌ地方(当時はイギリス国王の領地)にフランス国王が勢力を伸ばそうとして。また、フランスはカペ〜朝がフィリップ4世に世継ぎがいなかったため断絶してカペ〜家の親戚のフィリップ6世がヴァロワ朝を創始したが、イギリス王エドワ〜ド6世は母親がフィリップ4世の娘であったことからフランス・カペ〜朝の王位継承権を主張して。

2、イギリスはこの当時、広大な領地をフランス国内に持っていたため、フランスの王朝がカペ〜家からヴァロワ朝に移る中で起こる混乱を予測し、自ら(イギリス)の保有地の安全を守るためにフランスへと軍を派兵した。

が、それを快よく思わないフランスの国民感情が爆発して軍事衝突に至ってしまった。

3、既に広大な領土をフランス国内に持っていたイギリスはこの機にフランスを完全に手中に収めたかった。

4、土地が痩せていたイギリスはかねてより肥沃な土地を有するフランスが欲しかった。フランス王朝の交代はそれにまたとないチャンスであったため。

 


答え)①

 


解説) 1の通りである。

 

2.フランスにおけるイギリスの領土保全を名目にフランスへ軍隊を派兵したわけではなく、フィリップ6世によるフランス王位継承を認めず自らもフランス王位の継承を主張した。つまり、ヴァロワ朝に対して挑戦状を叩きつけたことが英仏100年戦争の直接のきっかけである。

 


3.この選択肢は作った後で気がついたのたが、ある意味では正解かもしれない。というのも、フランス王位継承を正統性を主張するということはフランスそのものを手に入れるというのと同じことを意味するからだ。しかし、1の選択肢と3の選択肢のどちらがより正しいかといえば間違いなく1である。

 


4.たしかにイギリスの土地は痩せておりフランスのそれは真逆だったが、別にフランスの肥沃な土地が欲しかったがために英仏100年戦争が始まったわけではない。

 


世界史クイズ7。

 


サグラダファミリアは何という建築様式か?

 


 

 


1、ロマネスク様式

 


2、ロココ様式

 


3、ゴシック様式

 


4、ビザンツ様式

 


答え)③

解説)1のロマネスク様式とは分厚い壁に小さな窓、そして半円ア~チを特徴とする。 たしか、当時の建築技術では大きな窓を作ることができず、また、力学上、薄い壁を作ることもできなかったらしい。そのため、ロマネスク様式の建築物の内部は非常に薄暗いそうだ。ちなみに、キリスト教の腐敗を内部から正そうとした「教会刷新運動」の中心となったクリュニ〜修道院はロマネスク様式の建築物である(最古のロマネスク様式の建築物らしい)。

 


2、ロココとは「小石」を意味し、その様式の建築物は繊細さを特徴とする。プロイセン王・フリ〜ドリッヒ2世がベルリン郊外のポツダムに建てたサン=ス〜シ宮殿が代表的なロココ様式の建築物である。また、絵画では「ぶらんこ」(フラゴナ〜ル)が有名。

 


3、ゴシック様式とは「ゴ〜ト人の」「野蛮な」という意味である。尖塔ア〜チとステンドグラスか特徴的で、特にその尖塔ア〜チは古ゲルマン人がいた森に繁茂していた針葉樹林を想起させる。カペ〜朝フランスの隆盛とともに拡大した建築様式である。

 


4、ビザンツ様式はモザイク画を特徴とし、ガラス・石・貝殻などの小片で壁面や天井を装飾した。ビザンツ様式の建築物として有名なのはユスティニアヌスが建てたハギア=ソフィア大聖堂や、ナポレオンが世界で一番美しいと言ったヴェネツィアの広場・サン=マルコ広場に面して造られたサン=マルコ大聖堂がある。

 


世界史クイズ8。

 


ピサの斜塔は何という建築様式か?

 

 

 

1、ロココ様式

 


2、ゴシック様式

 


3、ロマネスク様式

 


4、ビザンツ様式

 

 

 

 答え)③

 


解説)1・・・世界史クイズ7の解説2を参照。

2・・・世界史クイズ7の解説3を参照。

3・・・世界史クイズ7の解説1を参照。

4・・・世界史クイズ7の解説4を参照。

 

 


世界史クイズ9。

 


古代ロ〜マ帝国は誰によって滅ぼされたか、それぞれ西ロ〜マ帝国、東ロ〜マ(ビザンツ=ビザンチン)帝国について回答せよ。

 


 

 


1、西ロ〜マ帝国=476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって。東ロ〜マ帝国=1453年にオスマン帝国のスルタン・メフメト2世によって。

 


2、西ロ〜マ帝国=イエス・キリストの処刑をユダヤ人総督のピラトに命じた古代ロ〜マ皇帝・ティベリウスの仕打ちを怨んだキリスト教徒により、その積年の怨みがディオクレティアヌス帝によるキリスト教大迫害の際に爆発して、西ロ〜マ帝国はキリスト教徒による大反乱で滅ぼされた。東ロ〜マ帝国=13世紀の初め、ヴェネチア商人によって主導された第四回十字軍が、イスラム勢力の代わりにビジネス上のライバルである東ロ〜マ帝国の首都・コンスタンチノープルをこともあろうか攻めて東ロ〜マ帝国を滅ぼした。

 


3、西ロ〜マ帝国=395年にゲルマン民族による建国によって。東ロ〜マ帝国=1071年にセルジュ〜ク朝(セルジュ〜ク・トルコ)にマンジケルトの戦いで負けて滅ぼされた。

 


4、西ロ〜マ帝国=641年にイスラム勢力によるニハ〜ヴァンドの戦いによって。東ロ〜マ帝国=751年に唐(中国)とのタラス河畔の戦いによって。

 


答え)①

 


解説)1については特に書くべきことを思いつかない。

 


2。たしかに、イエス・キリストの処刑を命じたロ~マ皇帝・ティべリウスとそれを実行に移したユダヤ総督・ピラトらのことをキリスト教徒は怨んだろうし、また、ディオクレティアヌス帝によって大迫害も受けたが、それらによる怒りから実際にギリシア教徒は反旗を翻してはいない。また、マンジケルトの戦いには負けたものの滅ぶところまでには行っていない。

 


3、西暦395年は古代ロ〜マ帝国が東西の分裂した年。また、第4回十字軍が 聖地イェルサレム奪還の代わりに東ロ〜マ帝国の首都・コンスタンチノ〜プルを攻めてその地にラテン帝国を建てたというのは本当だが、それによって東ロ〜マ帝国が滅んだわけではなく、ビザンツ(東ロ〜マ)の残党は小アジア(今のトルコがある場所)に逃げてそこにニケ〜ア帝国というものを建国し、1261年にはコンスタンチノ〜プルを奪い返した。東ロ〜マ帝国とセルジュ〜ク朝の間で戦われたマンジケルトの戦いは、ヨ〜ロッパ勢力による聖地イェルサレムの奪還を目指した十字軍遠征の契機(きっかけ)となった。この戦いで小アジアをセルジュ〜ク朝に奪われた東ロ〜マ帝国はロ〜マ教皇に救援を求め、そして、1095年に開かれたクレルモン公会議でロ〜マ教皇・ウルバヌス2世が十字軍の遠征を決めた。なので、第四回十字軍によっては東ロ〜マ帝国は滅ぼされていない。

 


4、ニハ〜ヴァンドの戦いとはイスラム勢力とササン朝ペルシアの間で642年に戦われたもので、負けたササン朝ペルシアはその後すぐに滅んだ。タラス河畔の戦いとはイスラム勢力と中国の唐王朝中央アジアでぶつかった戦い。この時に製紙法(紙の作り方。中国では後漢の時代に既に改良されたものが用いられていた)がヨ〜ロッパ世界に伝播した。

 


世界史(兼倫理)クイズ10。

 


世界最古の哲学思想とは次のどれか?

 


 

 


1、ギリシア自然哲学

 


2、ウパニシャッド哲学(古代インド哲学)

 


3、古代中国哲学

 


4、スコラ学

 

 

 

答え)②

 


解説)1のギリシア自然哲学とは万物の根源(アルケ〜)は何かということについて考えたもので、一見すると自然科学のように思える。なぜ、彼ら自然哲学者たちが「最初の哲学者たち」と呼ばれるかといえば、彼らがそれまでの古代ギリシア人たちと違い世界の森羅万象を神々の物語ではなく人間のロゴス(言葉、理性、論理、理(ことわり)によって合理的に説明しようとしたからである。いわば、「神話(ミュトス)から理性(ロゴス)へ」という世界観の転換が起きたのである。

 


2のウパニシャッド哲学とは紀元前7世紀ごろに古代インドで生まれた世界最古の哲学思想。

 

 

 

3の古代中国哲学であるが一般的にそれは諸子百家の思想を意味する。古代中国には周王朝というのがあったが、B.C.771年に異民族・犬戎(けんじゅう)によりその都・鎬京(こうけい)を奪われて洛邑(らくゆう、後の洛陽)に遷都し、その後、B.C.221年に秦が中国を統一するまで春秋戦国時代と呼ばれる群雄が割拠する世であった。そしてそのような中、求められたのが新しい画期的な哲学・思想である。有名どころだと「儒家」「墨家」「法家」「道家」「陰陽家」などなど。これらのうちで一番有名なのは「儒家」だろう。が、この時代の儒学は哲学というより道徳的な礼儀作法などを主に扱かっているため、贔屓目に見ても世界最古の哲学とは呼べないだろう。儒学がぐんと哲学的になるのは12世紀に朱熹が大成した朱子学になってからである。「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」とは朱熹の言葉どある。ちなみに、徳川幕府朱子学を官学として取り入れた。

 


4のスコラ学とは中世キリスト教神学のことである。

 

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